516回 (2015.1.11

一遍会史の試みB  発展期   越智通敏と町衆と同志たち

三好 恭治 (一遍会 理事)

 

佐々木安隆会長の指導体制へ

 

一遍上人会の精神的指導者でありカリスマでもあった浅山圓祥師遷化(昭和五一年九月七日)は、一遍会並びに一遍会会員にとって大ショックであった。幸い、佐々木安隆会長が健在で、浅山圓祥師の教え子であった足助威男、古川雅山、越智通敏と新田兼市(一遍堂)、村上春次が一遍会運営の重責が引き継いだ。

直後の混乱はあったが、昭和五二年五月の第六三回例会から五三年二月の第七二回例会まで一〇回にわたる越智通敏の「一遍遺跡探訪報告」シリーズにより一遍会の方向付けが決まった。この背景には、一遍遺跡探訪の先達である足助威男への対抗意識があった。浅山圓祥師は生前足助威男の足で確かめた一遍の論述を高く評価していた。足助威男は昭和四五年五〇才で「八幡浜学園」退職後に遊行の旅に出る。

 

越智は昭和五一年三月愛媛県立図書館長退任し翌五二年五月から十一月までの七ヶ月間で六回、四〇日かけて、一遍上人遺跡訪問旅に出ている。残された記録からは、訪問先の寺院、図書館や観光協会から詳細な情報を事前に入手し、学究の徒として巡拝したことがわかる。足助の遊行聖的遺跡めぐりとは違う学究的な調査旅であった。ご子息の話では、退職金もあり研究調査の旅に出たが、この間家庭を見向きもしなかったと述懐している。昭和五三年に出版された越智通敏著『一遍 ―遊行の跡を訪ねて』にまとまった。

 

昭和五三年三月、第七三回例会(出席者十六名)で一遍会の運営を協議し、「一遍会」と改称し『一遍会報』創刊、役員の一新を図った。例会司会は村上春次、事務局は越智通敏が就任した。『一遍会報:』は編集・越智通敏 印刷・石田武が担当した。当初はガリ版印刷であった。

 

佐々木安隆会長は、昭和五五年二月九日一遍会二月例会直後に「にぎたつ会館」(公立学校共済組合道後宿泊所)で急逝(享年八一歳)。一遍会三月例会(第九七回)で座談会「佐々木前会長を偲んで」を企画している。村上春次(司会)、佐々木元弥(佐々木前会長長男)、白石達次郎、山本富次郎、永井隆昭、阿部芳川、亀岡克二郎、松本好太郎が会長との思い出を語っている。翌五六年一二月には、町衆の最大の支援者であった新田兼市・房子夫妻(一遍堂)がガス事故で急逝された。

 

佐々木会長逝去後の集団指導体制へ

 

昭和五五年、一遍会の黎明期から誕生期を支えた佐々木安隆、新田兼市の相次ぐ死去により、一遍会の指導部は第二世代となった。会長は置かず、一〇名の会員による集団指導体制に入った。

幹事 足助威男・石井ミキ・浦屋薫・越智通敏・白石達次郎・鶴村松一・永井隆昭・中村茂富・古川雅山・村上春次(一〇名)

監査 難波江正海・和田国高(二名)

 

昭和六三年(1988)十二月一日に立ち上げた「一遍生誕七五〇年没後七〇〇年記念事業会」の役員名簿に「一遍会代表幹事 村上春次」と記載されているので、昭和五五年(1980)三月以降、会長職は欠のまま、村上春次を中心に集団指導体制で運用された(と思われる)。事務局は、引き続き越智通敏が担当し、のちに浦屋薫が庶務・渉外を分担し、越智・浦屋の二人代表制となった。のちに越智は会長に推薦されたが、会長職は固辞し、対外的に必要がある場合には一遍会代表で通した。平成二年一月一日付愛媛新聞社告で、第三八回愛媛新聞社賞(文化部門)で「一遍上人の顕彰に功績」として、一遍会が表彰された。

 

越智通敏の時代

 

一遍会の主導権は、徐々に越智通敏に移っていった。彼を支えたのが、松山子規会・坊ちゃん会の役員で伊予銀行出身の浦屋薫であり、浦屋の先輩、同輩でもある和田茂樹(愛媛大学、宝厳寺檀家総代)、渡部満泰(伊予鉄道)ら旧制松山中学校出身者であり、浦屋夫人・和田夫人らの女性グループも活発に会員勧誘をした。

越智通敏体制での一遍会活動は三点に要約される。

@「一遍上人奉賛会」による「一遍・時衆遺跡巡拝の旅」昭和五三年十一月〜 

A「一遍生誕七五〇年没後七〇〇年記念事業」支援  

B           例会講師の拡充、行事の多彩化、開催日・開催場所の固定化

(参考)「越智通敏 略年譜」 省略

 

一遍・時衆遺跡巡拝の旅

越智が一遍奉賛会で「一遍・時衆遺跡巡拝の旅」を企画実行したが、それに先行して全国巡拝した寺院に神戸の真光寺がある。越智は、真光寺の巡拝団の旅行計画やスケジュールを取り寄せ詳細に検討している。「一遍生誕七五〇年没後七〇〇年記念事業」を控えて時宗寺院に遺跡巡拝の動きがあったと考えられる。

第一回「別府・国東半島の遺跡と観光」から第九回「山陰・山陽の遺跡と観光」までは主催は「遊行会」であったが、第一〇回「みちのくの遺跡と観光」から第二九回「広島・竹原・尾道の遺跡と観光」の主催は南海観光(株)(伊予郡砥部町 現伊予市砥部)で後援が一遍会・遊行会になり、観光ビジネスとして一般化していった。巡拝ツアーの参加者の多くが、「一遍奉賛会」に加わり、「一遍会」会員として登録された。名簿上はピーク二〇〇名としたが、一遍会に年会費は納めていない。

(参考)」一遍上人遺跡めぐり」省略

 

一遍生誕七五〇年没後七〇〇年記念事業

宝厳寺第五二世 故・浅山圓祥師の念願でもあった一遍聖生誕の地での一遍上人顕彰の動きである。「一遍生誕七五〇年没後七〇〇年記念事業」は昭和六三年(1988)十二月一日に立ち上がった。一遍生誕七五〇年没後七〇〇年記念事業会の役員は左記である。事務局は越智通敏方

会長  新山和臣(道後温泉旅館協同組合 理事長)

副会長 石丸正彦(道後商店街振興組合 理事長)

島崎有三(宝厳寺檀家総代) 野本清一(同上) 和田茂樹(同上) 越智通敏(一遍会代表)

記念事業は、平成元年(1889)七月一日、記念出版『一遍の跡を訪ねて』で幕を開け、平成二年(1990)年三月一五日、宝厳寺における「生誕会法要・歌碑除幕・踊り念仏」で終わった。一六ヶ月に及ぶ大プロジェクトであった。

一遍会最大の功績は「窪寺閑室跡」の発見と顕彰であり、その最大の功労者は中川重美(現・一遍会理事)を中心とする窪野の住民であった。「窪寺閑室跡」は河野通信(一遍祖父)の墳墓がある江刺の「聖塚」に匹敵する遺跡であるが、歴史学(考古学・文献学)的考証が不十分であり、また宝厳寺の積極的な支援もなく史跡認定には到らなかった。さらに地所が個人所有であり、世代交代(相続)により地所が再開発された。今日閑室跡の一角を除いて、窪寺跡や念仏堂は処分された。

 

一遍会主催行事の企画・運営

(1)一遍生誕会(松寿丸湯浴み式)

(2)一遍忌(窪寺まんじゅしゃげまつり)

(3)一遍啓蒙活動

が主なものであるが、残念ながら現在休止中である。

「一遍生誕会(松寿丸湯浴み式)」は平成二三年八月の宝厳寺本堂の焼失による休止、「一遍忌(窪寺まんじゅしゃげまつり)」は宝厳寺の不参加と地元(窪野)住民の高齢化により受け入れ態勢が整わなくなった。いずれにせよ、二つの行事は存続さすべきであるが、町衆・檀家(道後湯之町)と村方(窪野)の住民が主体的に運営できるか否かにかかっている。

一遍啓蒙活動は、月例会と併せて、文化団体・公民館・行政主催のセミナーで、会員が講師として積極的に講師を務めた、

 

おわりに

越智通敏が病に臥した後、一遍会の教務を担当したのは川本陽吾(昭和十四年松山中学卒 四国電力)である。父は旧制松山高校、愛媛大学で教鞭をとった川本正良(臥風)である。事務局(代表)の浦屋薫(昭和十一年 伊予銀行)と役員間の相克があり、越智が病臥にあり調整役としての機能を果たせずにいた。結果、平成一三年、一遍会は財政的に破綻を来たした。平成十三年暮れに浦屋薫が代表辞任を決意、事務引継ぎに入り、平成十四年総会で新たに会員の今村威、三好恭治が事務局となり再建を期すことになった。翌年(平成十五年)、愛媛大学名誉教授 小沼大八を一遍会会長(代表)として招聘し、ポスト越智通敏の時代に入る。